だから私は強くなるためにメイクする
最近、購入して満足したものがある。
前々から劇団雌猫さんのことは存じ上げていたが、
ついこの間、会社近くの本屋で見つけたので思い切って購入したこの二冊。
感想からすると
最高〜〜〜!!!!!!!!
恥ずかしながら、デパコスはリップぐらいしか持っていない私だが、
美容垢というものをフォローしていて、「へぇ〜こんな新作出たんだ、かわいい〜」と思いつつ
プチプラのドラコス*1で満足をしている。
さて、話を戻して私の #だから私はメイクする の発端は何だろう。
私は、コンプレックスとの戦いからである。
高校生、私はずっと悩んでいたことがある。それは自分が一重だということである。
それに対し、母親と兄はきれいな二重を持っていて、死ぬほどコンプレックスであった。
今だからこそ言うが、実は大学三年生のときにあまりにもコンプレックスだったので埋没法と言われるいわいるプチ整形を行った。
そのプチ整形をするまで、私はとにかく自分のコンプレックスを隠すために化粧を行った。
母親は私が若いうちから化粧することにあまり肯定的ではなかったため、メイクの方法はインターネットで調べて動画を見たりとかした。
目の形に非常にコンプレックスを抱いていた私は、つけまをつけて、二重糊や絆創膏などでいろんな二重チャレンジを行ってきた。
そうした中で、整形アカウントとよばれる整形をおこなった人たちを中心にフォローしていたら、整形している人たちはやはり美容意識が高く、コスメにもよく触れてツイートをしていたので、私の今のコスメに対する思いというのはそこが原点なのだと思う。
正直、二重も左目が取れかけていて、やり直したいとも思いつつ、社会人になってしまった今、十分なダウンタイムもなく昔ほどの執着もないので、両方の目がだめになったら切開したいな〜と思っているぐらいだが、
今はそんなことより痩せればなんとかなるのではと思っているので、
とりあえずあと五キロ痩せたら整形をもう一度考えています。
ピノのリップクリームをつけながらピノを食べたいと思っているけれど、果たしていつになったら私は痩せれるのだろう。
*1:ドラックコスメ、ドラックストアで売られている
のど飴より、花粉症の薬が欲しい。
こんにちは。
若手俳優を中心に書こうと思っていたこのブログだった。
しかし、いい歳になり始めているので、ちゃんと他のニュースでも感じたことをちゃんと聞き流すのではなく、言葉にして行こうと思ったので、
第一弾として、さっそく今話題の熊本市議会のニュースを自分的に思ったことを書いてみる。
ニュースの要約はすでに上の記事のタイトルだけでわかるだろう。
今回は咳が止まらなかったため、のど飴*1をなめて演壇に立ったところ、会議規則にある「品位の尊重」に触れるとして、急きょ懲罰特別委員会が設けられる事態になった。
私が上記で引用しているハフポストの記事を読むと、
以前の緒方市議の子連れでの退席も踏まえて、海外メディアが
「日本は遅れている」といったことで今の日本を批判している記事である。
いや、最初は私も思った。
のど飴ぐらい舐めてもよくない!?
だって誰の迷惑にもならないじゃん。
とは思っていたものの、ニュースで実際の映像を見たら真逆の印象を受けた。
いやいや、最初にのど飴なめてます、とかの一言ぐらい断っておけよ。
緒方議員の咳が止まらず、のど飴を舐めたというところまではわかる。
仕事に支障をきたしたくないから、というのもすごくわかる。
でも、確かに何も言わずに飴を舐めながらプレゼンするのは失礼よな。
いや、飲食は自由じゃん、とか思われるかもしれないけれど、
口にものを含んだまま喋るのは失礼だって私義務教育で習った。
のど飴を舐めるという行為より、断りもなく・のど飴を舐めながら・演壇に立ったこと会議規則の「品位の尊重」が損なわれたのではないか。
のど飴を舐めるのが悪いとは言わない。
断りもなく飴を舐めながら人前で喋るのが、マナーとしてどうなのかという話を、なぜ「飴をなめただけ」ということで炎上してしまったのか。
うーん。フレーミング効果。
飴を舐めている理由をちゃんと説明してからプレゼンをすればよかったじゃないか。
ちゃんと、赤子も議会に連れて行けるように議会を整備してからじゃダメだったのか。
もちろん、議会を整備するには時間がもちろん必要であり、既に小さな赤子をもっている緒方議員にとってはやむをえない行動だったのかもしれないと百歩、いや千歩譲っても、
今回の事件に関しては、熊本市議のおじさまたちに完全なる非があるわけではなかろう。
それで日本を悪く言われるのも、なんだか腑に落ちない。
お互いを尊重しあえる国にしたいのもわかるが、いささか行動が幼稚すぎる気がした。
そんなことをニュースを見ながら、私はのど飴じゃなくて目薬と花粉症の薬を摂取してから会社に向かわなければならない。
終わり。
終わり。
みんなで幸せになりたい
幸せになりたい。
でも、幸せってなんだ?
幸せって何だろう。どういう時に幸せを感じるんだろう。
推しが次のお仕事決まった時?
推しが楽しそうに板の上にたっているとき?
推しが毎日SNSで自撮りをあげてくれること?
それとも私が好きなコンテンツに出演が決まったとき?
ここ何日か、twitterで賑わせている記事がある。
虚無リンピック2018〜若手俳優舞台編〜
いや、まず記事のタイトルが素晴らしい。素晴らしいを超えて嫉妬。ずるい。だってタイトルだけで面白そうじゃん。
しかも若手俳優舞台編ですよ。虚無に虚無を重ねてくる*1。最高。
というわけで、乗るしかないこのBIGウェーブ*2、この記事を読んで思ったことを描いてみようと思う。
前提として、そもそも虚無って何だ?
と思ったので、とりあえずここでの虚無舞台を定義してみようと思う。
そもそも虚無とは、
1 何物もなく、むなしいこと。空虚。
2 この世に存在するすべてのものに価値や意味を認めないこと。「虚無感」
3 虚心であること。「虚無自在の心」
4 無限の宇宙。大空。虚空 (こくう) 。
5 古代中国の老子の哲学で、万物の根源・本体は、はかりがたく無であるということ。
つまりは、見ているだけで虚しくなってくる舞台を虚無舞台だと思ってもらえればいい。
推しはこんなにも頑張っているのに、脚本の内容が薄すぎるだとか、演出が酷いとか。
たまに、運営/制作の対応が槍玉にあげられることがある*3が、ここでは制作周りではなく、中身のみを評価した際にでてくるもののみを考えていただければ幸いだ。
さて、記事を読む前に自分の中で虚無舞台を上記のように定義はしてみたが、早速問題が起こる。
筆者は先の記事が非常に大好きなのですでに5周するほど読み込んではいるのだが、読むたびに違和感が出てくるのである。
その理由として、虚無舞台の定義が人によって違うのではないかと考えられる。
記事はそもそも、エントリを書く前に虚無舞台の投票をまとめ、記事の作者がコメントをしていくものであった。つまりは、虚無を感じた若手俳優舞台のファンによっておおよそ記事が作られているものである。
その中で、大きく3つの虚無に分けられるのではないかと思った。
- 内容(脚本及び演出)に不満があるから生まれる虚無
- あまりにも作品が大手だからこそ、一定のアンチ層による虚無
- 解釈違いによる虚無
1は、先ほど筆者があげた虚無舞台の定義とさほど変わらないので内容については割愛。
1に分類されるであろうコメントに関しては、笑いつつ明日は我が身の気持ちを持って読んだ。辛い。
2については、例をあげるとミュージカルテニスの王子様や、刀剣乱舞(舞台/ミュージカル)ら辺だろうか。
刀に関して、筆者は舞台の方をライブビューイングで拝見し、ミュージカルについては
トライアルが配信されていた頃に友人に見せてもらったのであまり詳しくはないので触れるのはやめておく。
例の記事で上位にランクインしていたテニミュは、現在3rdということもあり、以前の1st、2ndと歴史がある分、新しい演出の好みな気がしている。だから若手俳優目当てというより、IPものというかコンテンツのファンによる解釈違いがもっとも大きく関与しているのではないかと考えられる。まぁもっとも、これについては3とも被ってしまっている気がするが。
3に関しては、もはや虚無というより好き嫌いな気がする。でもこれは2.5についてまわるものだろう。そもそも2.5次元ミュージカル(舞台)というものが
2次元の漫画・アニメ・ゲームを原作とする3次元の舞台コンテンツの総称。
早くからこのジャンルに注目し、育ててくれたファンの間で使われている言葉です。
音楽・歌を伴わない作品であっても、当協会では2.5次元ミュージカルとして扱っています。一般社団法人 日本2.5次元ミュージカル協会|JAPAN 2.5-DIMENSIONAL MUSICAL ASSOCIATIONより
というものであり、作品の解釈違いがまず舞台化するときにおこり、若手俳優が演じる時にもおこる。そういうものである。と、私は考える。
「このキャラは○○なのに、俳優がうまく演じてくれない」「この作品の肝は〇〇なのに、脚本化/演出化されてない」からその舞台化作品に足繁く通うのは虚無である、ということだと考えられる。
さて、とりあえず虚無舞台認定された評価を分類してみた。
その上で「クソ舞台なら見に行かなきゃいいじゃん」と思われる方も少なからずいるだろう。
だが、ヲタクとして、通わねばならない舞台がある。
なぜそこまでして足繁く通わなければならないのか?
まず第一に、自分の推しにガラガラな客席を見せたくない、というのがあるだろう。
いくらプロの役者でもモチベーションに関わるだろうと容易に予想される。
というか、自分はこれぐらいしかお客を呼べないって思われるの普通にきつい。
そして第二に、自分の推している役者は客を呼べるんだとプロデューサーに思わせなければ次の仕事がないかもしれない、という危機感で行かないといけないと思ってしまうのである。
客を呼べる、というのは役者のステータスで大事になって来るだろう。
もちろん、次の仕事が決まるというのは客を呼べる自分の知名度のみではないが、普通に考えてやはり制作側としてはチケットを捌けさせるための十分要件ではあるだろう。
そういった理由から、推しを推したいヲタクは虚無になりながら、劇場に通うのである。
しかし、だからこそ虚無舞台が減らないというジレンマがそこに待っている。
金を落としてくれrそこにいる推しを目指して劇場に足繁く通うファンがそこにいる限り、いくら内容が薄くてもそこに金が入るなら、作品を作るのである。
いくら演技がお遊戯でも、いくら衣装が安っぽくても、いくら脚本がクソでも、いくら演出が「こういうのを求めていたんだろ」と求めていないものをさも欲しがってるから作ってやってるんだというものを感じても、そういった作品に出る推しをまた応援しに行くのである。
笑顔で頑張る推しのために。
ヲタク、頑張って生きていこうね。
さて、ここからが本題である。
ここでやっと冒頭の質問に戻れるのである*4。
どういった舞台ならみんなが幸せになれるのか、である。
そもそも、2.5を見にいく人は大きく分けて2種類いる。
原作が好きだから見に行くという人と、
その作品に出ている俳優が見たいから見に行くという人である。
先ほども述べたが、2.5とはいわいるIP*5ものである。
IPものというものは、非常にいいビジネスである。
いくら無名の役者でも、ある程度有名なIPものであれば、既存の原作ファンが見にいくのである。
つまり、制作側としては、ある程度の集客(=原作のファン)が見込めるからこそ、無名の役者を安いギャラで使えるのである。
事務所側としても、ある程度の集客が見込める舞台にお抱えの役者を出せるので、名前を売ることができる。
つまりは、制作と事務所の中ではwin-winな関係でしかないのである。
そこから、原作は知らないけど推しが出ているから見にいく、というファンも合わせれば、
名前も何も知らない劇団の舞台を作るより、確実にお金が入るのである。
さて、ここでまた改めて考えてみる。
2.5次元ミュージカルがそもそも虚無を生み出しやすいコンテンツであるのに、どうしたらみんなが幸せになれる舞台が作られるのだろうか。
そもそも、全員が舞台に求めているものが違うのではないか。
ただ、自分が推してる役者がそこにいるだけでいい人もいれば、
お金を払ったぶん、ちゃんと面白い脚本や演出を見せて欲しい人。
みんな幸せになれないけど、一人でも幸せになればいい世界。
舞台ってそういうもんじゃない?
投げやりに終わったけど終わり。